すけない!

第二・五症 生徒会長下着盗難事件

※この短編は、当サークル発行「すけかの。」のアペンド冊子です。
 本編の後に読まれる事をお薦め致します。つまり、買ってくだ以下略

 

登場人物

 

亀井 莉緒(かめい りお)

  ──文武両道に秀でた、美麗にして薄幸の生徒会長。被害者。
七伏 奈々瀬(ななふし ななせ)

  ──男勝りな陸上部のエース。犯人の幼馴染。
須波 魚葉(すなみ うおは)

  ──オカルトへの造詣が深い、「超常能力研究部」部長。

阿那野 藤鷹(あなの ふじたか)

  ──犯人。

   1

 

 老朽化した部室棟の階段は、彼女の体重を受け止めただけで、ギシリと呻いた。
 ほんの先日までは、そんな些細な音に気付きもしなかった。だが、今はこの床の泣き声が、不気味に聞こえて仕方ない。
 彼女──亀井莉緒は、この部室棟で受けた精神的ショックから完全に立ち直れずにいた。瞼を閉じれば今でも、稲光に浮かぶ不気味な廃墟が、そしてあのゾンビが蠢くおぞましい光景がありありと浮かんでくるのだ。
 幼少の頃、偶然両親が借りていたビデオを観てしまったのが、彼女のトラウマの始まりだ。以降、自分でも情けなくなるくらいに、ホラーやオカルトの類は受け付けない。
 だが、彼女の足取りを重くしているのは、それだけでは無かった。
「あ、会長だ!」
「こんにちは、莉緒会長!」
「……こ、こんにちは」
 すれ違った下級生の女子たちが、屈託無い笑顔を彼女に向けた。それに対して、莉緒は自分でも驚く程に、小さく気弱な返事を漏らした。以前の毅然とした莉緒の姿は、すっかり影を潜めている。
 そんな莉緒に気を留めることもなく、下級生達は談笑しながら通り過ぎて行った。
「……はぁ」
 その楽しげな後ろ姿を見送りながら、ついと莉緒は溜息を漏らした。
 彼女を苛んでいるもう一つの悩み。
 それは、自分がトラウマに打ちのめされた醜態を、不特定多数の生徒に目撃されてしまった事だ。
 ただ怖がっていたり、怯える姿を見られたならばまだ良かった。だが──よりにもよって、「パパ」「ママ」などと口にしながら、幼児の様に泣き喚き──。
「ありえませんわ、あんなの……」
 あの事件以降、生徒達の自分を見る目が変化したように思えてならないのだ。莉緒が生徒会長であることで、今までは皆ある程度の距離感を持って彼女に接していた。しかし、今ではどこか彼らの視線に妙な生暖かさを感じてしまう。
 親しまれたり、馴染まれたりするのは一向に構わない。莉緒も会長という肩書きがついているだけで、高校生には違いないのだ。同世代の少年少女たちに、敬遠されてしまうよりはよっぽど良い。
 しかし、その結果に至ったプロセスがどうしても納得いかない。部室棟に集う全ての文化部が、莉緒ともう一人の男子を騙す為だけに行った、「古びた廃校にゾンビが徘徊する」というドッキリ。冗談にしては大掛かり過ぎる、思い出すだけで身震いするほど馬鹿げた規模だった。
 今、彼女が立っている部室棟三階に居を構える「超常能力研究部」に、その企画を立ち上げた諸悪の根源がいる訳なのだが……。
 ──まぁ、悪いことばかりでも無かった。
 失ったモノはかなり大きかったが、替わりに得たモノはあった。莉緒は自分をそう納得させて、部室のドアノブを引いた。
「失礼しますわ」
 言いながら、部室に入ると、
「あ、亀井会長」
「り、莉緒先輩! ちょうどいいところに!」
 ぶかぶかの白衣を着た眼鏡の少女が差し出した湯気立つマグカップを、活発そうなツンツン髪の長身の少女が困った顔で受け取っている場面であった。二人共莉緒の来訪に、少なからず表情を緩ませる。
 白衣の少女は、須波魚葉。一年生ながら、超常能力研究部の部長を務めている。小柄な体でかなり子どもっぽいが、眼鏡から覗く瞳の奥で何を考えているのか分からない、底知れなさがあった。
 オカルトに詳しい彼女は、莉緒にとってはまさに天敵だった。ドッキリの仕掛け人も彼女だったのだが、その一件を境に莉緒と魚葉は和解を迎えるに至った。
 長身の少女は、七伏奈々瀬。本来の所属は陸上部なのだが、とある事情に巻き込まれ超常研の部員も兼ねることとなった。見た目に違わず活発で、莉緒から見ても男らしい女の子である。口調も荒く乱暴な面こそ目立つが、姉御肌というべきなのだろう。いつの間にか、莉緒とも気兼ねなく話をするようになっていた。
「……全く、今度は何をしているんですの?」
 手近な椅子に荷物を預け、莉緒は二人へと歩み寄った。長机では、カセットコンロの上で、やかんが甲高い音を漏らしながら、湯気を吐き出している。
「ホットカルピスです」
 一切の説明を省いて、奈々瀬が持っていたマグカップを半ば莉緒に押し付けるように渡した。
「ホット……?」
「今日は少し肌寒いので、趣向を変えようかと思いまして」
 莉緒の怪訝そうな眼差しに、魚葉が簡潔に答えた。この未だ謎の多い後輩はカルピスが大好物らしく、自らのみでなく部員やお客にカルピスを振舞うことを習慣にしているようだった。
「はぁ……、それでヤカンにカセットコンロ、ですか」
 窓の外は土砂降りの大雨だ。確かに普段よりは幾らか寒い気がした。
「魚葉、ありえないから。幾らカルピスが好きでも、ホットだけは無い。莉緒先輩もそうですよね?」
 拍子抜け半分、呆れ半分で白い水面に視線を落とした莉緒に、奈々瀬が同意を求める。
「それは、単なる食わず嫌いなだけですよ、七伏先輩。温めても美味しいんです」
「いーや、認めないね。そもそも、あたしに言わせれば冷温両方、本当に美味しいモノなんて存在しないんだ。うどんもソバも、暖かい方が喉越しが良くて、旨いんだ。逆に暖かい果物類は、甘ったるくて、結局冷やして食べるに限るんだよ」
「極論過ぎます。一般論かと思えば、完全に先輩の主観のみで構成された意見じゃないですか」
「……二人とも、落ち着きなさい」
 恐らく莉緒が部室を訪れる前に、ひとしきり論争していたのだろう。見る間にヒートアップする二人を、莉緒は緩やかにとりなした。
「まず、部室棟で無断で火を使うのは禁止されています。須波さん、ちゃんと許可は取っていますか?」
「……いえ。コンロは隣の手芸部が湯煎に使っているのを借りて来ました」
「全く。小さな火でも注意しないと駄目でしょう?」
 莉緒は手を温めていたマグカップを机に置くと、掃除道具入れのロッカーを開けた。バケツを取り出すと、部室備え付けの水道で一度中をすすぎ、なみなみと水を溜める。
「消火器もこの部室には無いんですから、最低限の備えくらいしないと」
「はい……。すみません」
 莉緒の指摘に、魚葉は素直に謝った。それを確認し、次に奈々瀬へと向き直る。
「七伏さん。貴女の嗜好に口出しする気はありません。が、そもそも貴女はカルピス自体が嫌いなのでは?」
「へ……? いや、それは……」
 莉緒の質問に、何故か奈々瀬は妙に狼狽する。この部室で何回もカルピスを飲んでいるが、それは決まっていつも莉緒と魚葉の二人だけだった。奈々瀬はいつも、曖昧な笑みを浮かべるだけで、出されたグラスに決して手を付けないのだ。
「別に、嫌い、ってわけじゃないんですけど……」
 罰の悪そうに奈々瀬は、ちらりと魚葉を見る。
「ちょっとした理由があるというか……。魚葉の父親に原因があるというか……」
「は?」
「え?」
「い、いや……! 何でもない、ははは!」
 何の脈絡も無く登場した単語に、莉緒と魚葉が揃って首を傾げたが、奈々瀬は誤魔化すように笑った。
「……かくいう私も、ホットカルピスは飲んだことはありませんが」
 そう言って、莉緒は改めてマグカップを手に取る。少々冷めてしまったようだが、湯気と共に立上る甘い香りに鼻腔をくすぐられる。元々冷たくても甘いカルピスは、温めれば奈々瀬の言う通り、相当濃厚な甘味へと変貌するだろう。
 少々怖気づきながら、莉緒はそろそろとマグカップを傾けた。変わらない独特の風味が、舌に絡みつく。温められたことで、甘さだけでなく酸味も強くなっており──。
「──美味しい」
 思わず莉緒が漏らした感想に、奈々瀬が「えっ」と驚きの声を上げ、魚葉がほんの僅かに微笑んだ。
「さあ、どうぞ。七伏先輩」
「……うーん」
 不承不承といった感じで、奈々瀬は新しく用意されたマグカップを魚葉から受け取った。魚葉と莉緒を順に眺めてから、観念したように、ふーと息を吹きかけてから、ゆっくりと口をつける。
「ん……」
 二人の注目を浴びながら、奈々瀬は小さく喉を鳴らした。
「……。……まぁ、その。思ったよりは悪くはないな」
「素直じゃありませんわね」
「いや、でもやっぱり冷たい方が美味しいけどな! 冬の冷え込んだ時に、ほんのちょっとだけ飲みたくなる可能性があるだけで!」
 頑なに自分の主張を完全には曲げない奈々瀬に苦笑しながら、莉緒はもう一度ホットカルピスを味わった。
「でもホントに美味しいですわ。意外と、くどく無くて」
「そうだな。もっと甘ったるいかと思ってた」
「ええ。もちろん、冷たいカルピスと同じ分量ではありません。この味を作り出せたのは、父のたゆまぬ努力の末に生まれた結晶……」
「ぶはぁ……!!!」
 奈々瀬が口に含んでいたホットカルピスを全て噴き出した。
「ちょ……、七伏さん!?」
「ごほっ、ごほっ!」
「どうしたんですか、七伏先輩?」
「こらぁ! 魚葉!」
 きょとんとした様子の魚葉に、奈々瀬が食ってかかる。
「お前、わざとやってるだろ!」
「……七伏さんは何を言っているんですの?」
「分かりません。ただ、以前似たような状況が、阿那野先輩と一緒の時も」
「しっかり覚えてるじゃないか! 絶対狙ってるだろ!」
 興奮した奈々瀬が、マグカップ片手に魚葉に掴みかかった。異様な剣幕の奈々瀬に対して、魚葉はけろりと無表情のままだ。
「七伏さん! マグカップ持ったままですわよ! あぶな……!」
「七伏先輩が何故怒っているか、分かりかねます」
「嘘つくな! やる事が悪質なオヤジっぽいぞ!」
「そんなつもりは。ただ私は、父が『エェ!? 女子高生の友達に美味しいホットカルピスを飲ませたいィ? よし、お父さんに任せろ! とびきり美味しい奴を作ってやるからな、ハァハァ』とはりきって夜なべして作ってくれた、特製カルピスを先輩達に飲んで貰いたくて──」
「うぎゃああああああああ! それ以上しゃべるなぁぁぁぁぁ!」
「七伏さん、落ち着いて……!?」
 見かねて二人の間に割り込もうとする莉緒だったが、今にも中身が飛び散りそうな奈々瀬のマグカップにばかり注意を取られたのは、彼女の手痛い失態であった。
 暴れる二人に押され、莉緒の手に残されたままのマグカップが跳ね上がった。その反動に残っていた白い流動体が、残らず宙へと放出される。ホットカルピスは美しい放物線を描いた──莉緒の顔面に向かって。
「あっ……!?」
「莉緒先輩!?」
 頭からカルピスをかぶった莉緒に、二人は慌てて諍(いさか)いを中断する。しかし、その拍子に今度は奈々瀬のマグカップから湯気立つカルピスが放たれ、莉緒のスカートやシャツを台無しにした。
「熱っ……!?」
「ご、ごごごごご、ごめん!」
 多少冷めていたとは言え、人の肌に触れるには熱すぎる温度だ。熱さから逃れようにも、カルピスが染込んだ服は張り付いて、容易に莉緒を逃さない。
「ど、どうしよう、魚葉!?」
「……! 仕方ありません! すみませんが、亀井先輩、少し我慢して下さい!」
 言いながら魚葉は、水がたっぷりと注がれていたバケツをよいしょと持ち上げた。
「え……!? 須波さん!? ちょっと待っ……!」
 カルピスに悶えながらも魚葉のやろうとしていることを察し、莉緒は慌てて制止するが、遅い。
 ざっぱあああああん、と岩場に打ち寄せる荒波を彷彿とさせる音が、部室内に響き渡った。

   2

 くしゅん、と莉緒が可愛く小さなくしゃみをした。
 魚葉にバケツの水を全身にかぶせられ、身を焼くような熱さからは解放されたものの、今度は水浸しのせいで急激に体温を奪われているようだ。夏間近とはいえ、このままの格好でいれば風邪をひいてしまいそうだ。
「先輩、ごめん……」
 シュンと項垂れて、奈々瀬がスポーツタオルを差し出した。元々彼女が陸上部で使うつもりで持って来ていたのだろう。莉緒はそれを受け取り、ひとまず顔をしっかりと拭った。
「全く……貴女達という人は……」
 拗ねたような莉緒の口調に、奈々瀬と、そして魚葉が更に縮こまる。実際は、もう怒ってはいないだのが、後輩二人には多少の反省を促すべきだろう。
「七伏さん、貴女には落ち着きがありません。もっと、周りの状況を見て行動しないと」
「はい……おっしゃる通りです」
「須波さん、私には良く分かりませんが、七伏さんの様子から察するに何か意地悪なことを言ったんじゃありませんの? 貴女の悪い癖ですわよ」
「……はい、今後は自重します」
「……って、やっぱりわざとか、魚葉!?」
「わざとと言うか、事実を言ったまでです」
「余計悪いよ!」
 再び奈々瀬が剣幕を変えるが、莉緒にじとりと睨まれてうつむいた。
 今までは二人に翻弄されたばかりだった莉緒だが、こうやって主導権を握るのは初めてだった。この機会にたっぷり二人の殊勝な姿を観察するのも悪くないかも──。
「くしゅん」
 そんな意地悪な思考も、くしゃみで中断される。
「あのー、莉緒先輩。着替えた方がいいんじゃない? 着替え無いなら、あたしので良ければ今、ジャージ持ってます」
「……それは助かりますわ」
 奈々瀬の遠慮がちな提案を、莉緒は素直に受け取ることにした。あいにく今日の授業に体育は無かったので、体操着もジャージも持ち合わせていない。二人のどちらから借りるにしても、体格的に奈々瀬の物が好ましい。
「では、しっかり体を拭いておかないと」
「ええ、そうですわね……。……ところで、須波さん。何故私の服のボタンを外しているのかしら?」
「……せめてものお詫びに、私も体を拭くお手伝いをしようかと」
 そう呟く魚葉の声のトーンは、普段と比べ随分と低い。謝罪の気持ちはひしひしと伝わってくる……のだが。
「あの、それくらい自分で出来ますから」
 笑顔を見せて申し出を辞退する莉緒だったが、魚葉は首を振って、彼女のシャツのボタンを下から次々と外していく。眼鏡のレンズに蛍光灯が反射し、彼女の表情が読み取れない。
「本当にすみませんでした。亀井先輩に迷惑ばかりかけて。ですから、気持ちだけでも返させて下さい」
「え、ええ。分かりました。気持ちだけは貰っておきます! 貰っておきますから!」
 慌てて魚葉の手を振り解こうとするが、まとわりつく細い白腕 はなかなか離れない。助けを求めて奈々瀬へと視線を送るが、彼女はじゃれあうような二人をまじまじと見守るばかりである。そして急に「おお」と呟いてから、奈々瀬は何故かもう一枚タオルを取り出した。
「莉緒先輩! お詫びのしるしに、あたしも手伝うから!」
「えっ!? あ、貴女たち、人の話を聞いて……! 七伏さん! 何を笑っ……本当に反省しているんですか!」
「よし、魚葉。あたしが押えてるから」
「はい、先輩」
 奈々瀬ががっちりと莉緒を羽交い絞めするのに合わせ、魚葉がするするとシャツをはだけさせていく。
「さっきまで喧嘩してたのに、どうして急に息ぴったりなんですか!? ほ、本当に怒りますわよ!」
「次はスカートでしょうか」
「そうだな。濡れたまま着てたら風邪ひいちゃうし」
「ま、待って! スカートと一緒に下着まで脱げ……いやあぁあああああああああああ──」
 上半身を守ろうとすれば下半身を、下半身に意識を向ければその逆を突かれ、みるみるうちに肌を露出させられていく。仕上げとばかりに靴下まで剥かれた頃には、莉緒はへたりこんですんすんと肩を震わせて泣いていた。彼女の足下には無残にも、散らされた美しい白百合の花弁の如く、制服や下着が広がっている。
「……もう、お嫁に行けませんわ……」
「大げさだなぁ」
 背後から莉緒の髪を拭きながら、奈々瀬が笑った。
「女の子同士だから別にいいじゃん」
「同性でも恥ずかしいものは恥ずかしいんです! しかも、む、無理矢理脱がせるなんて……」
「亀井先輩があまりにも可愛らしく抵抗されるので、つい興奮してしまいました。すみません」
「謝れば何でも済むと思ってません!? こんな姿、もし阿那野君に見られでもしたら……」
 自らの口から零れ出た言葉にハッとし、莉緒は反射的に部室のドアへ視線を投げた。釣られて奈々瀬と魚葉も、彼女の瞳の先を追う。
 ドアは沈黙を持って、彼女達へ返答した。古いながらも木製の戸板は、部室と廊下とを遮断する使命をしっかり全うしているようだ。
 妙な胸騒ぎは杞憂のようだ。阿那野藤鷹に、今の自分を見ることは出来ないにしろ、彼がこの場に現れたら、更に酷い羞恥と屈辱が待っているのは間違いが無かった。
「流石に、そろそろ藤鷹も来そうだな」
 興を削がれた様子で、奈々瀬が呟いた。彼女は莉緒の髪を拭く手を止めて立ち上がると、近くに放り出していたスポーツバックを引き寄せた。
「そうですね。阿那野先輩に裸の亀井先輩を見ることは出来ませんが……。先輩はこういった面に関しては油断出来ない方のようですし」
「あいつを喜ばせてもしょうがないし。莉緒先輩の裸もじっくり見れ……もとい、しっかり水気も拭いたし、そろそろあたしのジャージを……」
 そう言いながら、奈々瀬は自分のスポーツバックを引っ掻き回すようにまさぐっている。
「……はぁ」
 ようやくこの状況から解放される、と莉緒は安堵の息をついた。濡れてしまった下着の替えは無いものの、ひとまず何としても肌は隠さなければならない。
 そう、そうすれば先日新設された運動部棟の洗濯乾燥機で、時間はかかるがカルピス塗れの制服を乾燥出来る。ジャージ一枚のみで屋外を歩くのは抵抗があるので、ここは陸上部の奈々瀬に頼んで……。
「……あの、七伏さん?」
 今後の展望をひとしきり頭の中で描き終ったが、その肝心の第一歩、奈々瀬のジャージがなかなか現れない。急に不安に襲われて、莉緒は奈々瀬の顔色をうかがう。
 何故か、奈々瀬の顔にびっしりと脂汗が浮いていた。
「……あの、その、莉緒先輩。落ち着いて聴いて欲しいんだけど」
「…………聴きたくありませんわ」
 彼女の様相から状況を察した莉緒は、それでも頑なに首を横に振った。
「ちょびっとだけ、ほんのちょっとだけ、思い違いをしてたっていうか」
「ですから、何も聴きたくありません。キコエナイ、キコエナイ、キコエナイ……」
「七伏先輩、ジャージ忘れたんですね?」
 なかなか結論を言い出せない奈々瀬の代わりに、魚葉がさらりと指摘した。
「……うん」
「……いやぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」
 小さく奈々瀬が頷いた瞬間、莉緒は亀のように丸まって悲鳴を上げた。
「わ、わわわ、私を裸にしておいて、どういう事ですの、七伏さん!?」
「お、おかしいなー? 今日も明日も体育あるから、絶対持って来てるはずなんだけど……」
「『明日もあるから』と、教室のロッカーに放り込んだとか、そういった可能性は?」
 戸惑いながら頬を掻いていた奈々瀬が、目を見開いて魚葉を指差した。
「あ、それだ」
「七伏さん……貴女って人は……」
「ごめん、先輩! すぐひとっ走り取って来るからさ!」
 床にうつ伏せに丸まりながら、顔だけ上げて恨みがましい視線向けてくる莉緒を避けるように、引き攣った笑顔で奈々瀬が後ずさる。
「七伏先輩、もし途中で阿那野先輩を見つけたら、部室には来ないように何らかの形で警告しておいて下さい。何とか最悪の事態だけは免れるようにしましょう」
「おう! 見つけたらぶん殴っとく!」
「まだ何もしていないのに、それはあんまりでは……」
 魚葉の助言を受け取るや否や、奈々瀬は一陣の旋風のごとく身を翻した。力強い足音がリズミカルに、凄まじい勢いでドアの向こうへと遠ざかっていく。そう長い時間はかからないだろうが、奈々瀬が帰ってくるまで裸でいなければならないかと思うと不安だった。冷たく濡れた制服をもう一度着る気にはなれない。
「先輩、あったかいモノでも飲みませんか?」
「……もうホットカルピスは結構です」
「そう言われるかと思って、緑茶ならありますけど」
 魚葉はそう言って、ヤカンから急須へとお湯を注いだ。次いで傾けられた急須からマグカップへと、緑茶が湯気を舞わせながら移された。
 「どうぞ」とマグカップを渡され、莉緒はじんわりと手が温められるのを感じ、自然と緊張を緩めた。一口啜り、煎茶の香ばしさに一息ついた所で、ふと気が付いた。
「……初めから奈々瀬さんにはお茶を出しておけば、私はこんな目に遭わなかったのでは……?」
「七伏先輩、早く帰って来るといいですね」
 莉緒の物憂げな質問を、魚葉はあさっての方向へ受け流した。莉緒は溜息をついて、ドアを眺めながら奈々瀬の帰還を待つことにした。
 すると、途端にドアノブが回り、キィと戸板が軋んだ。奈々瀬が帰って来たのかと、ほんの一瞬莉緒は顔を輝かせたが──幾ら奈々瀬といえど帰って来るのが早すぎる。部室棟から二年生の教室棟への距離を考えれば、まだ教室へ辿り着いてもいないだろう。
 つまり、今まさに部室に入ろうとしているのは、奈々瀬以外の誰かだということは間違いないのだ。
「え、マジで!? 今度貸してくれよ!」
 同時に聞こえてきた声が、更に莉緒の絶望値を上方修正した。お気楽でいかにも軽薄そうな、男子の声。この声はまさしく……。
「おー、また今度なー」
 右手の携帯電話で会話しながら、ドアをくぐって来たのは、莉緒の、いや乙女の天敵、阿那野藤鷹本人であった──。

   3

「き……むが」
 莉緒が本日最大級の悲鳴をかち上げる寸前、魚葉の手がそれを阻止した。
「あれ、今日はまだ魚葉ちゃん、一人?」
 それが功を奏し、藤鷹は全裸の莉緒に全く気付く様子も無い。何気ない足取りで魚葉に近づいてくる。
 すぐに鍵をかけなかったのは、取り返しのつかない失敗だった。だが後悔しても、既に遅い。
 裸体を晒した美少女が目の前にいるにも関わらず、藤鷹が無反応なのは何も莉緒を無視しているからではない。阿那野藤鷹にとって、亀井莉緒という女子は、愛の告白を捧げた特別な存在だ。見事に玉砕したにも関わらず、彼女と共に青春を謳歌する事を、未だに藤鷹は諦めていない。
 だが、神の悪戯か、日頃の行い故の天罰か。
 今の藤鷹には彼女の姿を見ることは出来ないのだ。
 先日、幼馴染の奈々瀬をかばって階段から転落した藤鷹は、頭を強く打った拍子に、超能力じみた能力を発現するに至った。すなわち、「異性として意識した女性を透視する」能力である。
 彼の目を持ってすれば、彼と同年代の女子達はもとより、年下のあどけない少女や、年上の妖艶な美女まで、ストライクゾーンに入る女性は、ことごとく透明になってしまう。今、魚葉の目の前にいる藤鷹の視界には、ぶかぶかの白衣を羽織った女子の制服一式が宙に浮いている、という異様な光景が映っているはずだ。つまり、一糸纏わぬ莉緒は、無色の空気に完全に溶け込んでいる状態なのだ。声や物音を立てなければ、藤鷹に存在が気付かれることは無い。
 女子と仲睦まじくなる為に、青春を浪費している藤鷹にとっては、地獄の拷問に等しい過酷な能力だった。そんな藤鷹の能力に興味を持ったオカルト・超常現象マニアの須波魚葉、庇われた負い目から付き合わされている七伏奈々瀬、そして半ば詐欺紛いの芝居に騙され仲間に引き込まれた亀井莉緒。藤鷹のあまりにも役に立たない超能力を解除することを目下の目的としているのが、彼ら『超常能力研究部』である。
 藤鷹は「よっこいせ」と鞄を机の上に置き、通話を終えた携帯を鞄に立て掛けた。
「……? どうかした、魚葉ちゃん?」
「い、いえ。こんにちは、阿那野先輩」
 驚きのあまり無言になっていた魚葉だったが、停止してしまっていた思考を緊急再起動する。
 藤鷹が莉緒に気付いていないのは確かなようだ。一度、魚葉も彼に裸体を晒した事があるが、あの時も「まさか女子高生が裸でいるわけがない」という先入観のおかげで存在に気付かれることは無かった。今回も同様だ。まさか「あの」亀井莉緒が、たった今全裸で成す術なく魚葉の背中にしがみついているなどとは夢にも思わないだろう。

だが、この部室には「莉緒がいる」という痕跡が残り過ぎていた。彼女の鞄も椅子に載っているし、何より床には濡れた制服やらブラやらが、散乱してしまっている。幸い机が死角となって、藤鷹には気付かれていないようだが、見つかってしまうのは時間の問題だ。
(莉緒先輩、私が時間を稼ぎますから。ひとまず、制服を七伏先輩のバックに隠して下さい)
 振り向かないままに、藤鷹に気取られぬ様、小声で魚葉が呟いた。背後でうずくまる気配を感じてから、彼女は藤鷹へと歩み寄った。
「亀井先輩と七伏先輩は、一度来られたのですが、お二人とも用事があると先ほどお出かけに」
「ああ、言われてみりゃ先輩の鞄がある」
「七伏先輩は、ほんのちょっと前に出て行かれましたけど。廊下ですれ違いませんでしたか?」
「そうなの? 俺今しがたまで漫研の友達の所にいたからなぁ」
 漫研こと、漫画研究会の部室は、この超常研部室から見て、手芸部を挟んだ二つ隣だ。どうやら藤鷹は、奈々瀬が通り過ぎた後に漫研部室を出たようだ。間が悪いのか、それとも莉緒の運が悪いのか、偶然しては出来過ぎたタイミングだ。
「ん? 何か変な音が……?」
「き、気のせいじゃないでしょうか」
 怪訝そうに眉を顰める藤鷹に、若干声を上擦らせて魚葉が応じた。一刻も早く制服を隠したい焦燥に駆られているのだろう。衣擦れの音に構わず、莉緒は必死になってわさわさと制服を鞄に詰めている。
「聞こえない? 魚葉ちゃんの後ろ辺りだけど……」
「あ、ああ。そう言えばさっきカルピスを床に零してしまって」
 不審な物音と、白い水溜りとなっているカルピスが一体どう関係があるというのか。咄嗟に口走った魚葉にも意味が分からなかった。
「うわー、結構派手に広がってるじゃん」
 意味は分からなかったが、藤鷹の気を逸らす事には成功したようだった。「片付けるの手伝うよ」と、藤鷹が雑巾を取りに行った隙に、魚葉は莉緒へと視線を走らせた。
 散乱していた制服を何とかスポーツバックに収納し、莉緒が胸を撫で下ろしている。当面、制服や下着を目撃される恐れは消えたが、無論危機は去っていない。莉緒が裸でいる事に藤鷹が気付けば、どんな凶行に走るか、想像するだに恐ろしい最悪の展開だ。
(須波さん、助けて下さい……!)
 魚葉の鼓膜を、莉緒の涙声が微かに震わせる。
(じっとしていて下さい。阿那野先輩には見えていないんですから)
(分かっています、分かっています! でも……!)
 たとえ、眼に映らずとも、男子の目の前で裸でいる事実に変りはない。莉緒の顔は羞恥の果てに、真っ赤に茹で上がっており、歯の根が噛み合わなくなってしまっている。
「これ、雑巾にしていい?」
 そうこうしている内に、藤鷹が白いタオル地の布を手に戻って来た。答えようとした魚葉だったが、白衣を後ろから引っ張られ、不自然につんのめってしまう。
(り、莉緒先輩! 駄目です、引っ張らないで下さい!)
(うう……だって……)
  不自然な挙動を見せてしまい慌てる魚葉に、涙目の莉緒がいやいやと駄々をこねる様に首を振った。藤鷹の視界から逃れる為に魚葉を盾にしているせいで、魚葉 に藤鷹が近づけば、自然と莉緒も彼との距離が近くなる。今にもばれるかもしれない、という恐怖が彼女から思考能力を完全に奪っているようだった。
(怪しまれます! ばれますよ!?)
(ううぅぅぅ……)
 強く言い聞かせると、莉緒は不承不承に白衣を手放した。足音を殺し、藤鷹と対角線上のテーブルの影に隠れる。
「すみません、先輩。煩わせてしまって」
「魚葉ちゃんも、そそっかしいとこがあるんだねぇ」
 真相を語って聞かせるわけにもいかず、魚葉は乾いた笑いを漏らした。藤鷹と一緒に床のカルピスを拭きながら視界を傾けると、机と椅子の足の向こう側で、莉緒が肩を抱いて震えている。そろそろ限界が近そうだ。
 打つべき最善の手は、一刻も早く藤鷹を部室から追い出すことなのだが──。
「こんなもんか」
 綺麗になった床を、藤鷹は満足げに眺めた。しゃがみ込んで、机の下を隅々と見渡し──眼を合わせてしまった莉緒が顔を伏せた──うんうん、と頷く。制服が入っているスポーツバックも当然見えているはずだが、幼馴染の持ち物だからか、別段興味を示す様子も無かった。
「ありがとうございます、先輩」
「魚葉ちゃんの為なら、このくらいどうって事無いよ」
「せ、先輩、是非お礼をさせて下さい」
「え、別にいいよ、そんな大げさな」
「とんでもない。最近、オカルトカフェが開店して、そこがとても素敵なんです。今から、ただちに向かいましょう!」
「……うーん」
 普段の藤鷹ならば、女の子のお茶の誘いとあればすぐ飛びつきそうなものだったが、何故か思案げに眉根を寄せて唸っている。
「魚葉ちゃんと二人っきりってのは、魅力的なんだけどさ。今日すげぇどしゃ降りだし。行くならまた今度にしない?」
 確かに、雨足は更に勢いをまして、叩き割らんとばかりに、窓ガラスを大粒の雫が絶えず震わせている。こんな日に無闇に外出する気など起こるはずも無い。不自然極まりない強引な魚葉の誘いに対して、至極真っ当な正論であった。
「莉緒先輩、早く帰って来ないかなぁ」
 次の手を模索する魚葉をよそに、藤鷹は部室内を好き勝手に徘徊し始めた。別に糾弾や罰則に値する蛮行では無いし、歩き回るのは本人の自由なのだが、今、この場だけではして欲しくない行動だった。
 藤鷹が近くを通りがかる度に、莉緒が魚葉へSОSを発信する。仕方なく、彼女の傍に立つ魚葉だったが──。
「……ん?」
 不意に、奇妙な気配を察して、魚葉は大きな瞳を揺らした。
 部室内には変わらず、魚葉、莉緒、藤鷹の三人しかいない。何か、無遠慮な視線を感じた気がしたのだが、特に不審な姿は無い。
 莉緒は魚葉の背中で小さくなっているし、藤鷹は彼女に注意を払うことなく、気だるげに窓から雨霞を眺めている。
  机の上に鎮座している水晶の髑髏がたまたま魚葉に視線を向けていた。他に、卓上にはカセットコンロと、急須やマグカップのお茶用品一式、そして藤鷹が無造 作に置いた鞄と、それに背中を預けている携帯電話のみだ。メールでも着信しているのか、レンズの横で赤い光が音も無く明滅している。
(……気のせい、でしょうか……?)
 違和感の正体を詮索するか、それとも莉緒を救出する作戦を練るべきか。思考が泥沼に沈みつつあるのを魚葉が感じていたその時。
 舞台の幕引きは唐突に訪れた。
「莉緒先輩、ごめん! すっかり遅れちゃって!」
 扉を蹴り破る勢いで、息せき切って奈々瀬が部室へと飛び込んできた。肩で息をしながらも、手には約束通り青いジャージが握られている。
「何か今日に限って、もう教室に鍵がかかっててさ! 結局職員室まで足を伸ばす羽目に……って……藤鷹!?」
 窓際に立つ藤鷹の姿を認めて、奈々瀬は驚愕に眼を見開いた。次いで、裸で泣きながらうずくまっている莉緒を見て、みるみる柳眉が吊り上がった。
「七伏先輩! 駄目……!」
「こらぁぁぁぁぁぁぁぁ、藤鷹ぁぁぁぁぁぁ!」
 まずい、と直感した魚葉の制止も間に合わず、一瞬で怒りを沸騰させた奈々瀬が藤鷹へ詰め寄った。
「何だよ、うるせーな、奈々瀬」
 藤鷹が顔をしかめて奈々瀬を一瞥する。
「何考えてんだ、お前は! 莉緒先輩に何した!?」
「……は? 何言ってんだ、お前」
「すっとぼけるな! 莉緒先輩が泣いてるだろ!?」
「……意味がわかんねーぞ、奈々瀬。泣いてるも何も、その莉緒先輩は今どこにいるんだよ」
「は……!? あ……」
 そこまで言ってしまってから、奈々瀬の頭に上っていた血が一斉に引いた。藤鷹が全裸の莉緒を認識していない事にようやく気が付いたのだ。
「い、いいから! 藤鷹、早く出てけ」
「はぁ? 何でだよ」
「とにかく出てけ! あたしが許可するまで部室に入って来んな!」
 後に引けなくなった奈々瀬は、藤鷹を力づくで追い出すことにしたようだ。
「ここはお前の部屋じゃねーだろ!?」
「う、うるさい!」
「いて!? 何で俺蹴られてんの!? おい、奈々瀬、やめろ!」
 遂に実力行使に訴えた奈々瀬から、藤鷹は逃げ出した。暴走する奈々瀬にうろたえながら、小走りに魚葉とすれ違い──。
「うわっ!?」
「きゃあ!」
 どん、と何かに衝突し、その何かともつれ合いながら床に転がった。同時に響く、二重の悲鳴。
 何か、とはつまり、言うまでも無く、魚葉の後ろに隠れていた──。
「いてて……。今、俺何にぶつかっ……。うわ!? なんか柔らかくて生暖かいぞ!? 気持ち悪!」
「…………!」
「……はぁ」
 魚葉は天井を見上げ、嘆息する。
 うつ伏せの藤鷹に押し倒された形で、仰向けの莉緒が瞳を潤ませていた。ご丁寧な事に、藤鷹の右手は莉緒の胸を鷲掴みにしてしまっている。
 すぅぅ、と大きく莉緒が息を吸う音を、魚葉は聞いた。彼女はそっと、両手の人差し指で、左右の耳を塞いだ。
 ──直後。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 耳をつんざくサイレンのような莉緒の悲鳴。そしてほぼ同時に、「ばっちぃぃぃぃん!」と、濡れた布で肌を叩くような、凄まじく痛そうな打撃音が響き渡った。

   4

「う、うう……」
 今日幾度めともしれない涙を、莉緒はほろほろと流した。奈々瀬のジャージを着て、生まれたままの状態からは抜け出せたが、そこに辿り着くまでに、大切な物を数え切れないほど失った気分であった。
「もう、本格的にお嫁に行けませんわ……」
「すみませんでした、先輩。でも安心して下さい」
 失意のどん底に沈んでいる莉緒に、藤鷹は爽やかな笑顔を見せた。右の頬が壮絶に腫れているが、全く気にしていないようだ。
「俺がちゃんと、鷲掴んだ責任を取りますから!」
「結構です! 忘れなさい! お願いですから、一刻も早く!」
 味わった胸の感触を思い出したのか、藤鷹の顔がへらりと緩む。逆に触られてしまった莉緒も、男子の掌の無骨さを掘り返されてしまう。
「そもそも、莉緒先輩達が悪いんじゃないですか。事情をきっちり説明してもらえてたら、俺もすぐ出て行ったのに」
「嘘付け」
 藤鷹がさらりと並べた台詞を、半眼の奈々瀬が即座に否定する。
「絶対襲い掛かるに決まってるだろ」
「ふん、いきなり何も知らない俺に暴力を振るう野蛮人らしい考え方だな、奈々瀬」
「ぐ……」
 傍目から見れば、裸の莉緒がいる部室に何も知らずに侵入する藤鷹の方が常軌を逸している。だが、彼の「女性が見えない眼」という別の意味で常軌を逸している能力を知っている奈々瀬には、耳の痛い言葉だった。確かに藤鷹にとって、彼女の攻撃は理不尽極まりないものだ。
「魚葉ちゃんも酷いよ。俺ってそんなに信用無い?」
「……今までのご自身の言動を省みていただきたい所ですが……。確かに、阿那野先輩のおっしゃる通り、最初から全てをお話しておけば、あんな悲劇は起きずに済んだかもしれません。すみませんでした」
 悲しそうに尋ねる藤鷹に、魚葉が頭を下げた。だが、ただ何か納得していない様子で、謝罪の言葉はどこか上滑りしていた。
「うん、まぁ、皆。分かってくれりゃいいんだ」
 そんな三人の心中を察するつもりも無いらしく、藤鷹は満足げに一同を眺めた。
「他人を何の根拠も無く疑うのは良くないよ、やっぱり。信じることが大切なんだ。俺達、仲間だろ!」
「……そう言えば、莉緒先輩。濡れた制服どうすんの? そのジャージで帰るつもり?」
 熱い台詞で締めようとしている藤鷹を無視して、奈々瀬が尋ねる。
「いいえ、出来ましたら運動部棟の洗濯乾燥機を借りたいと思っているのですが……」
「あーあれか。今日はどこも屋外の運動部はやってないから、今の時間なら空いてるかも。あたしが行って来ようか?」
「ええ。助かります。是非お願いしますわ……あ」
 奈々瀬のスポーツバックに無理矢理詰め込んだ自分の制服や下着を思い出し、莉緒が青くなる。慌てて放り出されていたスポーツバックを拾い上げるが、外側はじんわりと湿り、顔を近づけなくても甘い香りが漂った。
「あー、濡れちゃってるね」
「ごめんなさい……。私、慌てて……つい」
「中に濡れて困るものは入れて無かったし、気にしないでいいよ、先輩。元はと言えばあたしが原因みたいなもんだし。この中の服で全部?」
「そうですね……」
 奈々瀬にそう訊かれ、莉緒はファスナーを開き、一応中身を検めておくことにした。
 バッグの中には赤いリボンを始め、シャツやスカートが皺だらけで丸まっている。出来ればアイロンもかけてしまいたいところだ。そして、白いハイニーソックスが一組、生徒会腕章、先日買ったばかりのブラジャーに、水色のパ…………。
 バックの中身を探っていた莉緒の手が、ぴたりと止まる。そうかと思うと、彼女は血相を変えて、慌ててバックの中身をひっくり返し始めた。
「そんな……。確かに入れたはずなのに……!」
「どうかされました、亀井先輩?」
「ないんです、なくなっているんです! 私のパ……!」
『……パ?』
 莉緒が叫びかけて飲み込んだ単語の断片を、残る三人が首を傾げて復唱する。莉緒がたちまち頬を染めてうつむいた。

    5

「犯人は──」
 カッと目を見開き、ビシィとあさっての方向を適当に指差しながら、
「──この中にいる!」
 藤鷹は高らかに宣言した。
「いや、お前だろ」
 そんな推理小説の探偵を気取った藤鷹に、推理もへったくれもなく奈々瀬が真犯人を指摘した。
「はぁ!? 何で俺が莉緒先輩のパンツ盗むんだよ!? 動機が無いだろ、動機が!?」
「阿那野先輩、申し訳ありませんが、動機の面から言えば先輩は真っ黒です」
 冤罪だと憤慨する藤鷹に、冷静に魚葉が待ったをかける。
「誤解があるようだけどな、魚葉ちゃん。俺は莉緒先輩のおっぱいや裸には多大な関心を寄せてるけど、パンツ単体には何の興味も無いんだぜ。パンツ一枚の莉緒先輩には勿論興奮するけどな!」
「そんな犯罪者紛いの告白を、胸を張ってされても困りますが……。しかも、全く弁解になっていませんし」
「さぁ、早く莉緒パンを先輩に返せ、藤鷹。今なら半殺しで済ませてやる」
「だから、俺は莉緒パンなんて知らないって言ってんだろ!?」
「しかし、亀井先輩の証言では、確かに莉緒パンはそのバッグの中に──」
「パンツパンツ連呼しないで下さる!? というか略さないで!」
 激しく言い争う藤鷹と奈々瀬に、珍しく莉緒が声を荒げて怒鳴った。すっかり人間不信に陥った彼女は、部室の隅で体育座りで落ち込んでいた。
「どう考えても阿那野君の仕業でしょう!? 早く私のパ──下着を返して下さい!」
「えぇ……!? そんな……、ホントに俺じゃないのに……」
 莉緒の悲鳴交じりの怒声に、藤鷹はいたく傷ついたらしく、がっくりと肩を落とした。
「落ち着いて冷静に考えてくださいよ……。俺はさっきまで莉緒先輩が部室に居たなんて知らなかったし、その奈々瀬のバッグに制服が入ってたこともたった今知ったんですよ? 存在すら知らなかった莉緒パンをどうやって盗むっていうんですか」
「それは……」
 藤鷹の指摘に、激昂していた莉緒も言い淀む。
「それに、俺は指一本たりともそのバッグに触ってません。もし俺がバッグの中を漁ってたりしてたら、すぐにばれてたでしょう?」
「う……」
 莉緒は魚葉に視線を送るが、彼女はゆっくりと首を横に振った。藤鷹の言う通り、彼がバックの中を物色するような素振りは、ついぞ無かった。また、同室内で二人の監視を掻い潜って、パンツを盗む時間も猶予も無かったはずだ。
 だが、部室内にいた唯一の男子が、藤鷹なのも確かだ。魚葉や奈々瀬ならバッグに触れる機会はあったが、逆に彼女達には動機が無い。
「そ、それは何かトリックを使って……」
「ううう……、そこまでして俺を犯人に……。俺ってそんなに嫌われてたのか……」
 苦し紛れな莉緒の呟きを耳にして、藤鷹は膝から崩れ落ち、床に両手をついた。
「男が俺一人だからって、疑う気持ちは分かるけど──だけど先輩、女だからって盗む動機が無いとは限らないじゃないですか」
「……どういうことです?」
「例えば、奈々瀬」
「はぁ!? 何であたしが!?」
 突然矛先を向けられ、奈々瀬が色をなした。
「女らしい莉緒先輩に憧れて、莉緒パンを盗んで研究することで、先輩の領域に近づこうとしたとか!」
「……ほっほーう」
「大人しく自分の罪を認め……いてっ、いたたたた、やめろ、な、奈々瀬、それ以上首を捻られたら盗難事件から殺人事件になる! ……はぁはぁ、それに魚葉ちゃんだって動機はありえるんだからな!」
「はぁ、私も、ですか。果たしてどんな?」
 にやりと不敵な笑みを浮かべる藤鷹に、あっけらかんとした表情で魚葉が尋ねる。
「莉緒パンを盗んで研究し、莉緒先輩のホムンクルスを生成しようとしたんだ!」
「……面白い仮説ですね」
「完成したら、俺にも一体下さい!」
「万能なる錬金術でも、パンツ一枚で人間の複製を創造するなんて無理な話です。まぁ、そのパンツに莉緒先輩の何かしらが付着していれば話は別かもしれませんが」
「な、何もついてたりなんかしません!」
「そして……一番怪しいのは莉緒先輩! 貴女です!」
 満を持して、藤鷹は体育座りの莉緒を指差した。
「はん、遂に血迷ったな、藤鷹」
 被害者を犯人呼ばわりする藤鷹の暴挙を、ぽかんとしている莉緒の替わりに奈々瀬が鼻で笑った。
「言うに事欠いて莉緒先輩が犯人? 往生際が悪すぎるぞ」
「いやー、奈々瀬。案外これがそうかもしれないんだな」
 どこか自身を漲らせて、藤鷹が肩をすくめてみせる。
「矛盾するだろ。被害者なのに、犯人なんて。自分の物を自分で盗むなんて、不可能だ」
「い いや、矛盾しない。莉緒先輩は被害者だが、犯人である可能性は十分ある。いいか、俺は勿論、奈々瀬や魚葉ちゃんも莉緒パンを盗んでいない、と仮定しよう。 そして、莉緒パンをバッグの中に入れた、という莉緒先輩の証言も正しかったとしよう。それにも関わらず、バッグの中の莉緒パンが消えた。一見不可解だ、だ が、もしもだ。先輩の証言が間違っていたとしたら、全てはすんなりと糸が繋がるんだ」
「……莉緒先輩が嘘をついたっていうのかよ」
「違う。莉緒先輩は嘘なんかついてない。だから被害者なんだよ。単なる勘違いで、バッグの中にパンツを入れた、と思い込んだんだ。実際は入れていなかったのに、な」
「そんな馬鹿な……! 私はあの時、確かに……!」
「本当にそう言い切れますか、先輩」
 慌てふためく莉緒に、藤鷹は静かに尋ねた。
「恐らく、先輩があのバックに服を詰め込んだのは、俺がこの部室に入って来た直後からだ。あの変な音は、その音だったんだろ、魚葉ちゃん」
「……その通りです」
 藤鷹の問いを、魚葉が肯定する。
「あの時、先輩は動揺して相当慌てたはずだ。裸でいることを俺から隠すために、必死になって周囲の服を、奈々瀬のバックに詰め込んだ」
「う……」
 まるで見ていたかのような藤鷹の推論に、莉緒は息を呑んだ。確かに、藤鷹の言う通り、彼女はあの瞬間動揺のあまり正常な判断力や認識を失っていた。良く思い出そうとしても、パンツをこの目で、この手でしっかりと確認したかどうか、はっきりと思い出せなかった。
 万が一、パンツだけ他の衣服と離れた場所、もしくは彼女の死角に入っていたとしたら……。彼女は他の服と一緒に、パンツもバックに仕舞い込んだと思い込んだとしても、不自然では無い。
 咄嗟に机の下に視線を走らせた。落ち着いて眺めれば、机や椅子の脚は死角という程、おおげさに視界を狭めることは無い。だが恐ろしいことに、いわゆる「思い込み」はさらに強力に莉緒の視界を歪めていたのだ。
「ああ……!?」
 奈々瀬と魚葉に寄ってたかって無理矢理服を脱がされた場所から、少し離れた机の陰に水色の布の塊を見つけ、莉緒は驚愕の声を漏らした。

   6

「き、機嫌直せよ、な? 藤鷹」
「ふーん。奈々瀬君。君は人をあれだけ罵っておいて、良くそんな口がきけたもんだねぇ」
「く……」
 無事パンツを発見し、「誰も悪くなかった」という大団円に辿り着いたのも束の間、奈々瀬、魚葉、莉緒には、更なる試練が待ち構えていた。
 犯人扱いされ、本格的に拗ねた藤鷹である。
「阿那野君、本当にごめんなさい。私、貴方に酷いことを……」
「いいえ、莉緒先輩、全然気にしてませんから」
 恐る恐る謝罪する莉緒に、藤鷹は屈託の無い笑顔を向けた。
「公正明大で、誰にでも平等に接すると信じていた亀井莉緒生徒会長に、思い込みで冤罪を被せられた事なんて全く気にしていませんから!」
「う、うう……」
「あんな風に疑われたら、普通の人なら相当ショックを受けるでしょうね。本当だったら、謝るくらいじゃ済まないくらいの問題発言じゃないですかね! まぁ俺は気にしてないけど」
「な、何が望みですの……?」
「だ、駄目です、亀井先輩!」
「そうだよ、早まっちゃ駄目だ!」
 藤鷹の度重なる嫌味と皮肉に、ついに莉緒が折れた。魚葉と奈々瀬が慌てて制止するが、莉緒はゆっくりと首を振った。
「いいんです……。これは安易に人を疑った私への罰。ここで責任逃れをしたら、私に生徒会長を名乗る資格はありません」
「良い覚悟です。莉緒先輩、それでは──」
「待てよ、藤鷹」
 挑むような険しい表情で奈々瀬が、飄々とした無表情で魚葉が藤鷹の前に立ちはだかった。
「……あたし達も、お前を疑ったからな。悪かった」
「すみませんでした、阿那野先輩。ですから、その罰、私たちも受けます」
「七伏さん……須波さんも……」
「くっくっく、良い度胸だ、二人共」
 友情を確かめ合うように頷き合う三人を眺め、藤鷹の笑みに邪悪な陰が差し込んだ。
「では、一人ずつに、一つだけ、俺の命令を聞いてもらおうか」
「……言っておきますけど、い、いやらしい命令とか実行不可能な命令は却下しますから」
「勿論ですよ、莉緒先輩。そうだな、まず奈々瀬」
 藤鷹はジロリと幼馴染を睨んだ。
「お前、今日一日、犬の真似してろ」
「は、はぁ!? どういう意味だよ!」
「言葉通りだよ。何だ、お前の知ってる犬は日本語しゃべれるのか? ん?」
「く…………。わ、ワンワン……」
「くっくっく、わーはっはっはっは! 案外お似合いだぞ! 奈々瀬!」
「ぐるるるるるる……」
 犬に身をやつした奈々瀬が犬歯を剥いて喉を唸らせた。調子に乗った藤鷹は、華麗に悪役キャラにジョブチェンジを果たし、高笑いを上げている。
「さて、次は魚葉ちゃんだ」
「……どうぞ」
 いつにない藤鷹の欲望のオーラに、さしもの魚葉も気圧された様子で先を促した。
「ホットカルピスを一口飲んだ後に、『ご主人様のホットカルピス、とっても美味しいです♪』って言ってもらおうかな。笑顔で」
「…………」
 藤鷹の言葉を聴いた瞬間、魚葉が瞳を曇らせる。
「おい! それ完全にセクハラだぞ!?」
「あー? 犬が何か吠えてるが良く聞こえんなぁ? 俺は魚葉ちゃんが笑うところを見てみたいだけで、他意はないけどな、くっくっく」
「ぐ……」
「……心配は無用です、七伏先輩。分かりました、私への罰はそれで結構です」
 そう呟いて、魚葉も藤鷹の邪まな要求を受け入れた。
「お待たせしました。最後は莉緒先輩ですね」
「お、お手柔らかにお願いします」
 怯えたように莉緒が視線を足下に落としたまま頷いた。
 先に突きつけられた二つの要求は、彼女達の羞恥心を煽りはするものの、特別難しいものではない。一時的に恥ずかしい思いをしなければならないが、藤鷹なりに手加減してくれているのかもしれない。──出来ればそうあって欲しい。
 心がくじけないように、気持ちを奮い立たせて、莉緒は藤鷹の口から告げられる罰の内容を待った。
「じゃあ『初めて会った時から好きでした』って、俺に告白して下さい」
「え……そ、それは……!」
 予想していた方向ではあったが、台詞の内容に思わず莉緒だけでなく、奈々瀬や魚葉も絶句した。
「何考えてんだ、藤鷹!? お前……!」
「それは、相当無理な要求だと思われますが……」
「う、うるさい! 演技してもらうだけなんだからいいじゃねーか!」
「虚しくないのか、そんなことさせて」
「うるせー! 莉緒先輩に『好き』って言って貰えるんならいいんだ! 俺がいいんだから、いいんだ!」
 やけくそ気味に怒鳴ると、藤鷹はテーブルの上に置いてあった自分の携帯を掴むと、カメラのレンズを莉緒に向けた。
「さぁどうぞ! 莉緒先輩! せっかくなんでカメラで撮らせてもらいます!」
「そ、そんな!?」
「さぁ! 早く!」
「う、うぅ……」
 確かに「出来ない」と跳ね除けるほど、無理な要求ではない。すげなく淡々とこなしてしまえば、簡単に済むように思える。
 しかし、一度妙に意識してしまうと、上手く口を開くことが出来なくなってしまった。藤鷹の血走った眼、無機質な携帯のレンズ、複雑そうな奈々瀬と魚葉の眼差し。人前でしゃべるのは、全校集会で慣れている筈なのに、恥ずかしさのレベルはその比では無かった。
 だが、言わなけば、終らない。
「あ、阿那野くん……」
 頬を赤く染め上げて、上目遣いに藤鷹を見つめながら、切なげな吐息と共に、莉緒は囁いた。これでは本当に告白しているようだ。
「わ、私……初めて会った時から貴方のことが────」
「──狼藉はそこまでです、阿那野先輩」
 羞恥心を押さえ込んで、莉緒が偽りの愛の言葉を紡ごうとする寸前、すっと人影がカメラと莉緒の間に割り込んだ。
「……何のつもりだ、魚葉ちゃん」
「須波さん……」
 険しい顔を歪めた藤鷹と、驚きに満ちた莉緒に挟まれながら、魚葉はすました表情で携帯のレンズを見つめていた。
「引き際を間違えましたね、阿那野先輩。ここまでしなければ、当初の目的は達成出来ていたでしょうに」
「な、何のこと……」
「むしろ、私に感謝すべきです。本当に亀井先輩のことが好きでしたら、やはりその言葉は実力で引き出すべきでしょう」
 魚葉は振り返り、莉緒を安心させるように、微笑んだ。
「残念ながら、事件は解決していません。この一連の出来事には、まだ隠されていた裏があった」
「ぎくり」
 謎めいた魚葉の言葉に、何故か藤鷹はたじろいだ。いつの間にか、額には汗が滲んでいる。
「魚葉、どういうことだ?」
「黒幕がいるということですよ、七伏先輩。勿論、その黒幕というのは……」
 魚葉は、すっと腕を持ち上げて、静かに宣告した。
「貴方です。阿那野藤鷹先輩」

   7

「な……、い、いきなり何を言い出すんだ、魚葉ちゃん! パンツの件は、莉緒先輩の勘違いってきっぱり証明されただろ!」
 妙に動揺しながら、藤鷹が反論する。
「パンツの騒動は、確かに莉緒先輩の勘違いでしょう。ですが、私が今から暴く阿那野先輩の企みは別件です。まず、ここで明らかにすべき重要なことが一つ」
 魚葉はテーブルの上に置いてあったヤカンをカセットコンロに置き直した。スイッチを捻り、ガスに火を灯す。
「阿那野先輩、先ほど、私にホットカルピスを飲むように、要求しましたね?」
「……ああ」
「何故、そんな要求を?」
 魚葉の質問に、憮然として藤鷹は口を開けた。
「ただ何となくだよ。丁度、部屋にお湯もあるし、今ならホットカルピス作れるだろ?」
「……阿那野先輩は、普段からホットカルピスを良く飲まれますか?」
「いや、飲まねーけどさ……。それがどーかしたのか?」
「……そうですか」
 まだ熱が残っていたのか、ヤカンはすぐにぐらぐらと水面を揺らし始めた。
「どうも、ホットカルピスというのは、私の認識とは違い、あまり認知度が高い飲み物ではないようですね……」
「だから、それが何──」
「阿那野先輩、貴方は、最初から亀井先輩が全裸で部室にいたことを知っていましたね?」
「っ…………!?」
「え……!?」
 唐突に斬り込んだ魚葉の一太刀に、藤鷹が息を呑む。莉緒も奈々瀬も、声を失った。
「な、何を根拠に!?」
「無論、阿那野先輩が馴染みのないはずの「ホットカルピス」という単語を口にしたからです。私達が飲んでいる所を目撃していなければ、阿那野先輩からその言葉が出るはずがありません」
「いや……俺はただ、お湯とカルピスの瓶があるから、皆が飲んでたのかと思って……」
「それは、おかしいですね」
 魚葉はカセットコンロの横に置いてあった、茶筒と急須を指差した。
「お茶の葉と急須が近くに置いてあるにも関わらず、先輩は私達が「お茶」ではなく「ホットカルピス」を飲んでいた、と連想されたんですか? それは少々不自然では」
「う……」
 続いて放たれた弐の太刀を、藤鷹は上手く捌ききれずに押し黙った。
「い、いや……、部屋に入った時から甘い匂いがしてたし……。それに、床にカルピス零してたから……」
「なるほど。ですが、それでは「ホット」と断定した理由にはなりませんね。私はいつも、氷を入れた冷たいカルピスを飲む姿しか、先輩に見られていません。ならば、どうして「ホット」だと分かったのか……」
「……だから、色々と部室内の断片的な状況を、総合して考えた結果だよ! そんなの、魚葉ちゃんのこじつけだろ!」
 あくまで冷静に指摘し続ける魚葉に対し、藤鷹は今までの余裕を明らかに失っていた。
「証拠がないだろ! 俺が知ってたかどうかなんて証明しようがない!」
「……」
「さっき俺を無実の罪で疑っておいて! また同じことを……」
「…………証拠なら、ありますよ? 先輩」
「な…………!?」
 完全に推理小説の追い詰められた犯人よろしく藤鷹は呻いた。
「阿 那野先輩は、おそらく部室に入る直前に、聞こえてきた私達の会話から、中で亀井先輩がホットカルピスをかぶり、全裸になっていると知った。しかし、部室に 入ったところで、今の阿那野先輩に亀井先輩の裸を見ることは出来ない。私の全裸を見逃したことですら、あれだけ悔しがったんです。先輩はおそらく、相当に 歯痒い思いをしたはずです」
「まぁ、こいつのことだからそうだろうな」
「どうすれば、この千載一遇のチャンスを活かせるか……、おそらく、部屋から出て行った奈々瀬先輩を、他の部室に入りやり過ごしながら、考えるうちに阿那野先輩は一つの結論に辿り着きます」
 すっと、魚葉の視線が、青ざめた藤鷹の顔から、その手に握り締められた携帯電話へと移った。
「今見ることが出来ないなら、後で、眼が治ってから見ればいいと」
「ま……まさか……!?」
 魚葉の言葉の真意を悟り、莉緒もかすれた悲鳴を漏らした。
「亀井先輩も憶えていらっしゃるでしょう。阿那野先輩は、入室した時、誰かと通話していました。しかし、実際は違います。通話していると見せかけながら、既にあの時から、携帯電話のカメラを録画モードにしていたはずです」
「う……!?」
 喉を詰まらせて、藤鷹がうろたえた。
「阿那野先輩の狡猾なところは、その携帯を最初から先輩に向けようとせず、何気なく机の上にただ置いた点です。そのせいで、私も亀井先輩も、携帯に不審を抱かなかった。阿那野先輩はカメラで亀井先輩を追うのではなく、カメラの視界に亀井先輩を誘導する作戦をとったんです」
「だ、だから、あの時せわしなく部室の中をぐるぐると……」
「た とえ見えなくても、「いる」と分かっていれば、亀井先輩のおおよその位置は掴めます。そうして、理想通りの場所に亀井先輩が移動したのを察し、後はじっと カメラに裸の莉緒先輩が写るのを祈りながら待ち──七伏先輩が帰って来た後は、これみよがしに亀井先輩へと突進した……」
 魚葉の言葉を最後に、超常研の部室内に重い、とてつもなく重い空気の淀みが生まれた。
「さて、その携帯電話を確認させていただきましょうか、阿那野先輩」
 沈黙を破ったのは、再び魚葉であった。
「い、いやだ!」
 血相を変えた藤鷹が、守るように両手で携帯を握り締めながら全力で拒否した。
「それは、罪を認めることと同義なのは、分かっていらっしゃいますね?」
「ち、違う! 俺はやってない! 俺は何も……どはぁ!?」
「ワンワン」
 低い声で犬の鳴き真似をしながら、奈々瀬がローキックで豪快に藤鷹の足を刈った。背中から床に叩き付けられた拍子に、藤鷹の手から携帯が転がり落ちる。
「しまっ……!?」
 慌てて起き上がろうとする藤鷹の右肩を奈々瀬が、左肩を莉緒が、全体重を乗せて踏みつける。
「は、離せ……離してくれぇぇぇぇぇぇ!」
「……失礼します」
 藤鷹の断末魔を背に、魚葉は携帯を拾い上げぽちぽちと操作する。
 ビデオを立ち上げて、ファイルを確認する。今日の日付に一時間前の時間が記されたファイルはすぐに見つかった。録画時間はおよそ三十分。間違い無かった。
 ファイルを開くと、超能研のドアらしき木の壁のアップが画面に映し出された。そして、
『え、マジで!? 今度貸してくれよ!』
 入室した時の藤鷹の台詞が、そっくりそのまま携帯から吐き出された。床に転がっていた藤鷹がピタリと暴れるのを止めた。
『……? どうかした、魚葉ちゃん?』
『い、いえ。こんにちは、阿那野先輩』
 魚葉と藤鷹の会話を携帯電話が再現していると、固定され壁ばかり映していたカメラの映像に、肌色の人影が現れた。
 泣き出しそうな表情で、胸と股間を手で覆った、全裸の莉緒だった──。
「ここからは推測になりますが……」
    映像を停止して、魚葉は前置きした。
「阿那野先輩は偶然誰よりも早く、莉緒パンを発見したんだと思います。そしてそれを自分の計画に利用することを咄嗟に思い付いた」
「どういうことだ、魚葉?  藤鷹は真っ先にあたしたちに疑われたんだぞ?」
「それが目的だったんです。あくまで阿那野先輩の目的は携帯の映像。ご自分でも言われていましたね。莉緒パンには興味は無くても、裸には興味があると。ですから莉緒パン盗難の容疑が自分にかかるのを承知で、敢えて莉緒パンを発見した事を黙っていた」
    すらすらと魚葉が仮説を唱えるなか、被告は天を仰いで黙秘を続けている。
「莉 緒パンの在りかははっきりとしているのだから、亀井先輩の勘違いだということは後で確実に証明出来た。一度冤罪をかけられれば、私達も別の容疑をかけにく いし、携帯からも目を逸らせることが出来る。あの短時間に良くここまで考えられたものです。驚嘆に値します。ですが」
    魚葉は人差し指で、すいと眼鏡を持ち上げた。
「あそこで調子に乗ったのは失敗でした。そうすれば、私に尻尾を捕まれることも無かったでしょう」


   8

「こ、これでおあいこかなー? あ、あははははは、ほ、ほら、皆も俺を無実の罪で疑ったじゃん? だ、だから」
「阿那野くん」
 乾いた声でそう言った藤鷹に、彼の肩を踏んでいた莉緒が感情の一切を失った声で呼び掛けた。
「私は、貴方に「好き」と言えばよろしいんですよね?」
「は? あ、いや、でも」
「スキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキ」
  それは魚葉ですら、背筋を凍らせる、ゾッとする光景であった。たまたま選んだ日本語二文字が「ス」と「キ」であるかのように……、風の鳴る音、木の軋む音 が、人の悲鳴のように聞こえても、その音には何の意思も無く、感情も介在しない。虚ろな瞳でそう呟き続ける莉緒を見ることが出来ない藤鷹は、ある意味で幸 運だっただろう。
「……これでよろしいでしょうか?」
「あ、ありがとうございます。でも、もうちょっと情感を込めていただけたらなぁ、って。そう思うよな、奈々瀬?」
「ワンワン(殺す)」
「凄いな、奈々瀬。犬の鳴き声のはずなのに、俺意味が分かっちまったぞ」
 脂汗をだらだらと流す藤鷹へと、沸騰した湯を注いで、激しく上気を吐き出すホットカルピスを片手に、魚葉は近づいた。
「私は、ご主人様にホットカルピスを飲ませて差し上げればよろしかったでしょうか」
「ち、 違うよ、魚葉ちゃん。飲むのは魚葉ちゃんの方で……って熱ぅ!? 熱いよ、それ熱湯じゃんか!? え、ちょっと待っ……、傾ける位置が高くない? あと場 所が……熱っ!? は、鼻からは無理だって! 顔に飛び散って顔中熱いし! そして甘い! すげー甘い! ごめんなさい! もうしません! 俺が悪かった です! だから、だからそんなに一気に傾けるのはやめぎゃアアアアアアあああああああああああああああああ」

                                            ──────了

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