VENOM BLOOD



     序 

 ──ああ、これは、駄目だな。
 いつかは辿り着くと思っていた結末。あっけない最期の訪れを、彼女は静かに受け入れた。
 禍々しい月の光に浮かび上がる自身の姿は、泣きたくなるくらいに惨めだ。お気に入りだったロングコートは、見るも無残に切り刻まれ、敵の返り血と、自分の血でボロボロになってしまっている。
 むせ返る血臭に、軽く咳き込む。それだけで、口中に生ぬるい液体が広がった。胸に穿たれた大穴から、永きに渡り啜り、編んで来た命脈がほどけ拡散している。傷口から侵入した銀狼の毒が、彼女の体中を食い荒しているのだ。
 地面に落ちていた視線を、ゆっくりと持ち上げた。感覚は最早失われている。満足に動かせない体を、纏わり付く質量を持った影が無理矢理支え、持ち上げた。渾身の力で練り上げた最期の──黒の暗泥(ダークタール)。
 視線の先には、見慣れた化け物が突っ立っていた。ささやかな薄光が、暗がりから巨大なシルエットを切り取っている。
 その怪物は、「銀狼」と呼ばれていた。彼女達一族の宿敵に実に相応しい呼称だ。
 だが、白銀の剛毛に包まれた異形の体躯も、鋸の如き牙がずらりと並んだ大顎も、彼女にとっては可愛らしい、愛嬌すら感じる風貌だ。
 しかし、いまや美しかった金色を濁らせた双眸をひくつかせ、口元からは汚らしく涎を垂らしている。理性の欠片も感じさせない、野の獣の方がまだ上品に見えるくらいだ。
 普段彼が見せていた、恐れと敬いと、困惑と、若干面倒臭げな表情は完全に獣性に塗り潰されている。ただ狩るべき獲物として認識されているのが、許し難い屈辱だった。生意気なクソ犬が、どれだけ威容を誇ろうが、ここから鼻唄交じりに完膚なきまで叩きのめすまで、二分もかからないというのに。──五割の力も残っていればの話だったが。
 死にかけの彼女が、最期に彼にしてやれる事は一つしかない。この先、悪戯に数多の人肉を貪り、悲惨な末期を迎える彼の命をこの瞬間に絶つ事。冥府へ共に旅立ち、道中慰めてやる事、ぐらいだ。
 魂が辿り着く涯があるとして、自分と彼の行く先が同じだろうか、と不意に他愛もない不安が頭をもたげた。死の淵にあるはずの自らの思考に、思わず苦笑する。同族すら震え上がらせるこの私に要らぬ心配までさせるとは、どうやら向こうに行っても調教が必要らしい。
 ──来い、終らせてやる。
 挑発の言葉を口にしたつもりだったが、生憎喉を潰され、声は形にならなかった。だが、決戦の意思は伝わったようで、銀狼は唸りを上げ、瓦礫を蹴った。
 強靭な脚部から生み出される、猛烈な瞬発力。それこそ一瞬で、銀狼は彼女の眼前を覆いつくした。
 彼女は動かない。悠然と、それを他人事のように身じろぎ一つせず見据えている。
 すかさず醜い双腕が彼女の肩を、凄まじい力で鷲掴みにした。爪は易々と肉を裂き、鎖骨がか細い悲鳴を上げ、へし折れた。
 獲物を捕らえた銀狼は、止めを刺すべく大顎を開き、下劣な凶器を露にした。牙と牙を繋ぐ唾液が幾重にも糸を引き、月の光を帯びて揺らめいている。
 元が何であれ、光れば綺麗に見えるもんだ、と冷静に魔獣の喉奥に狙いを定めながら、彼女は思考を漂わせる。そこから自分の全生命力たる黒の暗泥(ダークタール)を流し込み、体内から爆裂させれば全て、終る。おそらくは何の痛みも感じないままに、彼は砕け散るだろう。それがせめてもの手向けだった。
 彼女を支えていた影が蠢き、銀狼の口元へ殺到する。異物の侵入に悶えながらも、喰らいつこうとするが、もう遅い。その質量の多くを牙に削られながらも、黒の暗泥(ダークタール)は淀みなく銀狼の体内に侵入を果たしていた。
 一つ念じれば、黒泥は獄炎の灼泥と化す。たった一つ念じるだけで──。
 銀狼の牙が、動きを止めた彼女の首に穿たれた。失われたはずの感覚が急に息を吹き返し、灼熱に焼かれたような痛みが彼女を苛む。それでも彼女は、発火のトリガーを引くことが出来なかった。
 彼女を躊躇わせているのは、長く共に過ごした、凶獣と化した従者に対する憐憫からでは無かった。憐れに思うのなら、すぐに殺してやるのが優しさだ。その決意は確固として揺るいではいない。
 彼女を押しとどめているのは、初めて耳にする、自身の肉体の悲鳴であった。「死にたくない」という肉体の切実な叫びが、彼女の魂を大きく揺るがした。
 死への恐れなど、遥か昔に超克したはずだった。むしろ、長命な自分が目まぐるしく移り変わる生命の環の外に取り残されているようで、死へどこか憧憬すら抱いていたというのに。たった今でも、心に恐怖は微塵も沸いてはこない。
 しかし、死を既に受け入れている彼女の精神とは裏腹に、彼女の体はこの期に及んでもなお、しぶとく足掻いていた。死の淵から彼女を引き摺りだそうと、必死にもがいていた。傷ついた血核がどれだけ燃え上がろうと、無駄で無意味なことは分かりきっている。だが、肉体を奔走する血流は決してそれを認めようとはしない。
 ──そうか、そうだったな、ユリス──
 黒の暗泥(ダークタール)の支えを失い、図らずも銀狼の爪に支えられるようにして、彼女の全身から力が抜け落ちた。
 精神が自殺を望んでも、生を疎んじても。何かを成し遂げても、未練を残していても。生まれて間もなくとも、長寿を全うしようとも。
 それが人間であろうが、銀狼であろうが、吸血鬼であったとしても、だ。
 誰だって死にたくはない。当然のことだ。その畏れを、肉体からは決して振り払うことは出来ない。それは自分にも、目の前の犬コロにも当てはまる。
 生存欲とは違う、自分の一部を永遠に世界に留まらせたいという、肉なる願望。ただあるだけで死が運命づけられている世界に、自らの血を継いだ存在を縛り付けたいという狂想。
 彼女は、自身に従うことにした。
 著しく分の悪い賭けではあるが、彼を救う手立てがないわけでは無かった。
 だが、その先彼を待っているのは過酷にして残忍な、無慈悲で冷たい世界である。そんな世界に放り出すよりは、殺してやる方がマシだと思っていた。彼も「あの時、何故殺さなかった!」と大いに嘆くに違いない。
 ひどく霞む視界の中で、そんな彼の醜態を思い描き、彼女は薄く微笑んだ。
 しかし、それも面白い。
 肩を砕かれていたが、両腕は何とかまだ動いてくれた。彼女は、白銀の毛並みを掻き分けて、そっと逞しい銀狼の首へ手を回した。
 銀狼の体毛は触れるだけで、じりじりと彼女の肌を焦がした。針金のように硬く鋭い毛並みは、最悪の手触りだ。爪牙は更に深く食い込み、最早数十秒とこの命は保たない。
 別れの抱擁を交わすには、十分過ぎる時間だろう。抱擁と呼ぶには荒々しく、離別には似つかわしくない、煌々と輝く真白い月の下で。

 それでも、悪くは無い気分だった。

 

 

 

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